三室山

本を読んだり映画を見たり、鉄道唱歌の旅に出たり

ifの屍

四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、僕の責任は四分の一だけだ
芥川龍之介「闇中問答」

 どこの学部でもだけど、大学の専攻を選ぶには二つのパターンがある。ずばり、それが好きなのか好きではないのか。
 私は好きだから文学部を選んだし、私の周りもそうだった。
 けれどみんな四年間で終わらせて、一般的に言えば文学とは関係のないところへ就職した。
 私はプライドがチョモランマ級にあるので、文学に関してみんなに負けたつもりはない。けれど勝ったつもりもない。
 違いはただ、就職か進学かの選択だけだ。持っているものに差はなかった。読んだ本の量や知っている理論の数は、そんなの時間の問題だ。
 この差異を決めるのは遺伝、境遇、偶然、自責の四つ……を全て含めた偶然というものなのだろうけど、それにしたって、みんなどこかで可能性を捨てた、いや可能性が死んでいるのだ。どんな境遇にも言えることだけど、人は皆常に誰かの可能性の屍の上にいる。

 まだ学生で良いね、なんて言われると、ふざけるなこちとら生活費自分持ちフリーター院生で時間も体力も常に限界自転車操業だ馬鹿! と内心思っていたけれど、このことに気づいてからはあんまり思わなくなった。不安定な足元は、積まれた屍の山だったんだな。
 だからあと2年弱だとしても、その分本気でやるのが四分の一の僕の責任であり権利であり義務なんだ。
 自分がifを殺す番になってようやく気が付くとはね。

実体運営システム

人間ひとそれぞれ、放っておいても進んでやることとその逆がある。
放っておいても本を読む子もいれば、朝読書というシステムがないと本を読まない子もいる。
私は放っておいても本を読むし、洗濯もするし、掃除もする。その代り、放っておいたらご飯を食べない。
別に食べるのが嫌いな訳じゃないし、どうせ食べるなら美味しいものを食べたいとは思うけど、なんというか積極性がない。
例えば朝起きて、そこに何もなかったらお湯を沸かしてお湯を飲んでおわり。そのままバイトに行って、7、8時間労働して、お風呂に入って掃除して洗濯してあれもう寝るか、と一日が終わる危険性がある。(ちなみにバイトの休憩は30分とかなので何かもっていかないと食べる時間がない、よってバックにお菓子があればポリポリ食べたりするけど、無ければ水飲んでおしまい。)
実際は、さすがに朝起きてお腹は空いているのでおせんべいを2枚とお土産でもらったざびえる(大分銘菓)をひとかけらとを食べていたのだけれど、たぶんこれも無ければ食べなかっただろうな……。
身体は昼過ぎや夕方に適宜、お腹すいてるよ! とアラームを鳴らしてくれるのだが残念彼にはスヌーズ機能が無く、一度無視するとそれ以降沈黙。あれお腹空いてないぞ、寝るか。となってしまう。身体のせいじゃないのに被害は身体の方へ。ごめん私の身体よ。

しかしさすがに絶食すると一日がたつころには手がしびれてきたり、フラフラしたり。
倒れたら本も読めないし、思考も出来ない。これはよくない。自分で自分に朝読書ならぬ食事システムを運営してあげなければ……ということになった。今まではお母さんが運営してくださっていた。
日曜に、ご飯を炊きおかずをつくり溜め、それをいつ食べるか指示書をつくる。明日着る服を前日に用意するかの如く、明日の朝食べるセットを用意しておく。そうそう、服も前日に用意しないとダメな子なんです。
というか、実体世界への興味が薄い。脳みそだけで、思考だけで生きられたら良いのになあとか思っている。きっともうすぐそれが出来る世の中になるのではなかろうか。
友達は、仮にそうなったとしても私たちは実体重視の世界で育ってきたから矢張り実体にしがみつくと思うよ。と言う。
確かに、私も集中して読みたい本や参考書なんかはまだまだ紙じゃないと嫌だとか言っているし、もし選択を迫られたら実体にしがみつくのかもしれない。けれど、のほほんと生きて居られる現在においては相変わらず実体に積極性が無いわけで、ちゃんと実体運営システムを作ってあげないといけない。
そしてその実体運営システムをどんどんバージョンアップ、効率化していかないといけない。なぜなら実体運営システムの効率化、これ自体は思考で実験だから楽しくて、実体運営そのもののモチベーションとなるのだ。
どうしたらより忘れ物をしないか。どうしたら朝の支度がもっとはやくなるか。どうしたら掃除が面倒くさくならず嫌な気持ちにならないか。どうしたらご飯を忘れないか。

私が平均よりも生きづらいなあ(主観)と思っているからかもしれないけど、この実体運営システムの運営、見直し、バージョンアップというものは生きて行くうえで必要不可欠。そうつまり、お前がママになるんだよ!

すみれの花

「芸術とは何ですか。」

「すみれの花です。」

(太宰治「かすかな声」

 

絵が上手くなりたい、文章が上手くなりたい。

下手じゃなくなるのは簡単だけど、上手くなるのは難しい。最初からサラッとできていそうな才能の持ち主とか文才とか言うけれども。そもそも上手い、とは一体何なのだろう。

美術芸術に正解はない、違うということは全て良い、全て至上。というのはよく言われる。けれど同時に際限が無くなって、アナーキズムに陥るよ! とも忠告される。だからゆるやかな規範の中で、ちょっとズラしたものがもてはやされている。ように思われる。

この緩やかな規範の中でのお遊戯は文壇主義とか言われるものなのかなあ。と思ったりもするけど、原理は至極単純で明快、当然の傾向だと思う。

自分で作って自分で眺める分にはそりゃ、全て至上の俺様至上法で良い。しかし誰かに見てもらいたいなら、慰め合いたいなら、ある程度の規範の中に治らないとまず見てもらえない。理解してもらえない。まずは見てもらわないと始まらない。宇宙語で小説を書いても、読んでもらえる確率は低い。ということだ。社会不適合者と呼ばれる芸術家だって、今の社会に名が残っているということはやっぱり社会の一員で、宇宙なんかじゃなく社会に向けて作品を発信していたのだ。

そう考えると、上手いというのはより多くの人に多くのものを考えさせる、そんな技術なのかなあとぼんやり思う。マスターキーを超えて瞬時解錠のピッキング技術。ネガティブハートにロックオン、オープンハート!(©︎しゅごキャラ!)

そんな技術を上手いって言うんだろうな。

世の中よ

世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ泣くなる

(藤原俊成)

 

世の中もののあはれが多すぎる。

「感受性おばけ」と友達と呼び合っているのだが、文学や芸術に縋りよる人たちは特にこのあはれを感じすぎてしまう。と思う。それに振り回されてHPを消費しまくり、息も絶え絶え泣いては怒り倒れ伏し死ぬ死ぬ言いながら生きている。たまに本当に死ぬ。

俊成も息も絶え絶え山に入り、世の中のあはれから逃げようとしたのだと思う。けれど結局、鹿の気配だけで泣けてくる。当たり前だ、そりゃ泣くよ。細い足カサリと小さい音を立てて、陽に当たる黄金色の毛並みまで見えるよ。あはれすぎる。

高田馬場駅のロータリーに転がったトイレットペッパーのひとロールとか、赤黒く腐食した四谷見附橋とか。朝の青い暗さの中光る蛍光灯とか。そういうものに泣いて、肝心の家族とかにはめちゃくちゃな態度をとる。はっはーん、子供のままの大人ってよく言ったもんだ。

 

けど振り回され続けてなんだか生きてこれちゃったので、痛いプライドまでできて、さらにすがって、もっとアンテナを張り巡らせて、きっとそのうち天気予報で泣きだすぞ!

空よおまえの散らすのは

我が家はざっくり言うと、機能不全で全員がAC、そんな共同体ですてへぺろ、って感じなのだが、まあ自分の払う学費がどこへ消費されているかを知る権利はあろう......と、口頭試問のために印刷した卒論のコピーを、「要りますか」と父に問い、渡した。

数日後、というか昨夜。頭が痛くなりかけたけど読んだで、と報告された。図書館から借りてきた、と「海と毒薬」の文庫を片手に、私の論の要旨をペラペラ語りながら、まだ勝呂医院のところなんやけどな、お前の読んでから読むとそういう読み方もあるんやて思うわ、と言われて、はーん。まあね、それがきっと本質よ。と偉そうに思い、どう考えても私が持っているだろうに図書館で借りるディスコミュニケーションと、南京大虐殺を肯定するようなところが気になった、と私と違う歴史認識と政治思想とを流すことにした。

 

昨日は白いイろい雪の列でしたね。

ラスコーリニコフに糖分を

罪と罰」の主人公、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフくん。彼はお話の初めから終わりまで、実に忙しい精神と肉体との上昇・下降を繰り返す。

特に最初の、事件後の長い長い寝込み期間とその後の徘徊は凄まじい。

彼のこの状態は、素晴らしいお友達、ラズミーヒンくんの繰り返す通り栄養失調や狭い部屋の状態なども大きい理由だろう。しかしその中でも、特に糖分が足りていないのでは? と思う。

メンヘラの幼馴染は自律神経の失調で、それについてくる妹は低血糖だと思う。根本的な治療はともかく、発作的に心が苦しくなった時は、体温をあげて糖分をとって、ひたすら寝ろ! 

ラスコーリニコフくんも、GABAとか食べときゃなんとかなったんじゃないかね。

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

 

 

 

ホモ・サピエンス・サピエンス

年末年始、ポケ森の正月イベントやバイトの連勤術と戦いながら 「歌うネアンデルタール」を読んだ。全てが、ほえ〜勉強になるなあ! という感じで、とっても面白かった。有意義。

 

歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化

歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化

 

 

副題にもあるように、ヒトの進化と音楽/言語の進化・役割の考察がメインテーマになっている。しかしその本題にいくまで、考察を重ねる経過でも面白い仮説を紹介してくれていて、それぞれがとっても面白い。

 

その一つが、現生人類とそれ以外のヒト科の違いは「心の理論」と「思考意識水準」という話で、ちょっと思うところがあった。

簡単に言うと心の理論とは、他者の知識や信念や願望が自分と異なることを理解する能力で、思考意識水準とはこの意識のレベルの違い。

例えば一次の思考意識水準は私はこう考えているということ。二次の思考意識水準はAさんはきっとこう考えていると私が思うこと。三次の思考意識水準はAさんはこう考えているとBさんは思っているに違いないと私が考えていること。

人間は社会生活で日常的に三次から4次の思考意識水準を使っているといわれ、類人猿やホモ・サピエンス以前のヒトは最高でも次の思考意識水準にとどまっていると考えられる。

ということなのだが、ここで思ってしまった。果たして私はホモ・サピエンスに必須の、高次思考意識水準を保てているのか?

私は性格が悪いと言うか、アホというか、他人をいじりすぎてすべったりあとで自己嫌悪に陥ったり、ということを繰り返して生きている。学習能力がないともいう。だから「しんせかい」を読んだ時も、主人公が先生のいないところで、サービスのつもりで調子に乗って先生の文句言っちゃうところだった......。

しかし一人になって、1日を反省すると自己嫌悪に陥るわけで、その時に思うのが、人それぞれが見せる、そして私が見る面は一面に過ぎないという当たり前のことだ。

 そのタイムラグを無くして、はやくホモ・サピエンスになりたいもんだ。努力せい!