三室山

本を読んだり映画を見たり、鉄道唱歌の旅に出たり

令和東京物語

勤めに忙しき夏終わりていよ〳〵本業の研究にとりかからんと、手始めに国会図書館へおもむきぬ。

千代田線にて向かい、国会議事堂の傍をぐるりと歩く。参観に来る中学生とおぼしき集団、まず観光バスから続々と降車するを見る。興奮気味の生徒らに、渋谷に行けばさらに驚かんと声をかける教師、バスに掲げられたる「町立」の文字を見るに、遠方よりの修学旅行生なるべし。

またさらに進めば黄色い帽子の可愛らしい児童ら列をなす。教師では足らず、警備員まで幾人か出できて、車道に出ぬよう注意す。おそらく東京かそれに近き関東の子どもなるべし。我も幼き時、参議院に埋まりしアンモナイトを見し記憶あり。

して久方ぶりなれば、色々とまごつき、なにも為さんまま身体のみ疲れ果つ。時はすでに日暮れにならんとして、らちが明かぬと上階の喫茶に入りて軽食を摂る。

店内非常に静かにして、客も給仕もどこかぼんやりと、えもいわれぬとろとろとした時の流れる喫茶なり。厨房へ伝えらるる注文も耳によく入る。珈琲もあるが、ココア、アイスクリイムなど糖分を求める多かりしも図書館という場所柄ならん。考え倦んだ様子の大人たちが、スタンドにおさまりたるアイスクリイムをひとさじすくっては窓を見やりて、何らのモニュメントかのようないびつな形にしてゆくはおもしろく心に残るなり。

その後はなかなかに集中し、夕刻七時、閉館時間の鐘とともに外へ出づ。いつのまにか日は短くなりて、辺りはすでに暗し。季節のめぐりを感じつつ、脳裏に浮かぶは先ほどまで居りし館内なり。勤めの帰りかあらん、多くの人々最後まで資料を手放さじとかじりつきけり。我もまた最後まで粘りし一人なりしが、この光景また明日からの励みとならん。

帰りて外風呂に入る。自転車を漕ぎて夜風を受けるここちよさ、秋冬を好みしゆえにいと嬉し。洗い髪、首筋に涼風を受けるよろこびは現代においてなかなかに味わいがたかるべし。

かくのごとく随所にあはれを感じたる一日なれど、実はこれには訳あり。常に携行せし無線機を忘れしゆえ、もの思いにふける以外にすることなかりけり。ありきたりな話なれど、たまにはネットを離れ、浮世の欲望、情報から逃れ、ただ己が五感六感のみをたよりにして生きるもよからん。

また筆をとったは、行き帰りに読みし『東京百年物語』に影響されつ。これは明治起こりて東京生まれしよりこの方の東京の風俗を写せし編みしアンソロジイにて、三巻組なり。この日は第一巻を読めるが、特にこれは明治の特集にて、その文体流麗、久方ぶりに読めるこの期に特色ある文体なつかしくおぼゆ。よりてこれにて、我も何か令和ならではの東京の風俗を写さんと思うなり。

 

*    *    *    *    *    *

 

なお、第二巻、第三巻も読み進めり。この二巻は教えを受けし先生方お二人の編集なれば、授業にて扱った資料なども思い起こすこと多し。

 

東京百年物語1 一八六八~一九〇九 (岩波文庫)

東京百年物語1 一八六八~一九〇九 (岩波文庫)

 

 

 

東京百年物語2 一九一〇~一九四〇 (岩波文庫)

東京百年物語2 一九一〇~一九四〇 (岩波文庫)

 

 

 

東京百年物語3 一九四一~一九六七 (岩波文庫)

東京百年物語3 一九四一~一九六七 (岩波文庫)

 

 

 

 

アスタリスクのあとの付記、明治期の小説にありがち。

教科書と魔法と布のはざまで

最近、FF6をやっています。Appleのセールでなんとお値段840円だったのです。iPadで快適なぼうけんの旅。
同時に、古典ギリシア語とエスペラント語の勉強に励んでもいます。目指せシャンポリオン
さらに同時に、オタク活動としてぼそぼそと文章を書いています。しめきりがやばい。あとあと、クマのぬいぐるみに服を縫っています。手縫い。
他には、働きすぎなバイトとか、みんななかよし大学院(笑)とか、研究(一時停止)とかとか、愉快に過ごしています。

で、今回ひさびさに筆を執ったのは、「私、なんで勉強してるんだろう……」と、ふと虚無に陥ったからで。

もともと、時間の無駄に対する強迫観念めいたものを持っていて、「ゲームを見たりテレビを見たりするのが楽しいけど、でもその時間に本を読んで知識を増やしたり、文章書いたり、縫い物したりした方が良くない?」と思っていたのです。

でも、気づいてしまいました。そうやって時間を節約して、私の脳に知識が増えても、私が何か作っても、何にもならないことに。

世の中にはもっと頭が良い人々がいるわけで、その人たちは後世の役に立ちます。でも中途半端な私の脳みそは現状のままでも時給数千円を生み出し、それ以上でもそれ以下でもない。

古典ギリシア語でプラトンを読めるようになっても、びた一文増えない(まだ読めないけど)。
エスペラント語で『沈黙』を読めるようになっても、その努力を分かる人はほぼいない(これもまだ読めないけど)(って結局承認欲求かい)。
何時間もかかってクマの服を縫っても、買った方がきれい(不器用)。

人生は徒労。無駄に脳を痛めつけるくらいなら、休ませてあげた方がよいのかしらん。
こう考えちゃった時に、人は子供が欲しくなっちゃったりするのかも。
とりあえず、テレビを買いました。


そういえばこの中に入ってる「ほにゃららサラダ」、ものすごく刺さった。

私はあなたの瞳の林檎

私はあなたの瞳の林檎

されど私の可愛い檸檬

されど私の可愛い檸檬

じかんぎんこう

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

サバイバー問題を考える

 家庭内の諸々のせいで健全な精神発達に至らず捩くれたまま大人になってしまった人々をいわゆるアダルト・チルドレンと言うわけですけれども。そんな我々だって年がら年中病んでいる訳ではない。少なくともこの名称を知って、何らかの治療というか何というかをして、自分の中で折り合いをつけて、耐えて、努力して、努力して、そりゃあもう日々努力ですよ、気をぬくとまた堕ちるからね、を重ねて、その結果寛解というか、小康状態というか、ようやく「え、普通じゃん!」と笑われるような外面を保てるようになっている。そういう状態の人が多いっていうか私だこんにゃろー。そんで、世はこれをサバイバーというらしいのです。
 ここで重要なのは二つ。一つ目は、この「普通じゃん!」は他人には思い及ばぬ(と当人たちは固く信じている)血と汗と涙の滲んだ努力によって成り立っているということ。この他人には思い及ばぬっていうのはね、別に機能完全家庭(そんなんあるのか?)で育った人には分かんねーよばーか、ということではなくてね、もうAC界隈で集まっても駄目ですっていうそういう感じ。私の苦しみは私しか知らないし、私の努力も私しか知らない。ぽろっと一端を喋っただけで分かられてたまるか! というプライドを各々持っているからね。無理。だけど同時に、こういう努力をしないでのうのうと生きている(となんとも迷惑なことに我々が考えがちな)人々に関しても、くっそー! やっぱ一回地獄に落ちろ! この世の地獄とそこからの生還を必修科目にしろ! と思うわけですよ。分かられてたまるか、だけど分かれ! っていう矛盾。つまりね、ひねくれているんですわ。自分の努力に並々ならぬプライドを持っているから。でもこのプライドはね、ないとやってらんないよ。そうじゃなきゃどうしてこんな理不尽って泣いちゃうもんね。
 二つ目は、この「普通じゃん!」に晴れて至ったのはもちろん自分たちの努力もあるけれど、偶然による作用も多い。これを忘れてしまいがちだということ。自分の苦しみと努力に関しては分かられてたまるか! と思っているのに、他人のそれに対しては軽率に分かった気になっちゃうんですよね。誰にも分からないのが個人の苦しみで、だからその解法も誰にも分からないはず。なのに分かった気になっていらん先輩風を吹かせようとするこの矛盾! よくない! よくないけどやってしまいがち! 戒め! 自分は出来た。だから出来ないやつは努力が足りん、なんてそんなのねえ、されて嫌だったはずのことを再生産しているんですね。おお怖。やはり捩くれたままだったのだな。
  
 もちろんACという問題意外にも人それぞれ試練が与えられているというのは頭では分かっているんだけどね、理論と感情と行動は別の問題だからね。難しいなあ人間って。
 

友人が自殺してるかも…安否確認の110番

「自殺 ほのめかし 110番

とかで検索しても、110番したあとのことが書いてねーんだよ! ということで、今晩もそんな迷える子羊が眠れぬ朝を迎えることがないように書くことにします。

 

友人が今度こそダメだ、と第六感が囁くとき、そして直接は行けない深夜、どうしたらいいの!?

「友人 死んでるかも 」などで検索すると、その答えは割とすぐでてきます。そうです110番

 

用意するものは、友人の住所、電話番号、本名、自殺をほのめかす発言/発信の証拠、度胸。生きていた場合に絶交されても構わないという覚悟。あと自分の名前。

可能であれば病名などの情報もあれば良いです。

 

どう言えば伝わるかというと、110番して、なんかごにょごにょ、友達が死んでるかもしれなくて…あの……と言えば、ちゃんと案内してくれます。

が、スマートに行きたいときは

「(自殺をほのめかす)友人の安否確認をしたいのですが」

と言えば良いでしょう。

私はごにょごにょ言ってたら千葉県警さんにサラッとそう言い直されました。ので、そのあと繋がれた警視庁さんには何食わぬ声でそう復唱しました。

(私は千葉からかけてるのに安否確認したい相手は東京都だったので途中から警視庁に繋がれた。私も気が動転してのっけから勢いよく住所とか言っちゃって、落ち着けそれは東京都だ!ってことになった)

 

で、上記の情報を聞かれるままに伝えればいいのですが、最後に「もしかしたらまた警察のほうから電話があるかも知れません/電話でご協力頂くかも知れません」とか言われます。ハアそりゃもちろんよろしくお願い致します、って感じで通話は終了する訳ですが、ここからが問題。

何がって、安否確認の結果を教えてくれるわけではないのです。おいどうなったんだよ!

 

今回の110番はこれまた違う友人と相談して行ったのですが、その後我々は当たり前だけれども眠れず、朝までLINEで通話して、その子が死んでるか否や、最悪の状況から希望的観測まで、30パターンほど話し合いました。結局自分のこと以外は冷静で薄情な己を反省したりもしました。だって私は話しながら絵描いてたし。そのあと人生で最も真剣にロザリオを一環祈ったけど、そのまま始発で訪問することも無く爆睡したし、迷ったけど前々から楽しみにしてたオタクイベント行きましたからね。結局自分しかかわいくないし、本多(豊饒の海)にはなれない。

ペルソナを分裂させながらオタ活して、短調クラシックギターを聴きながら夕刻、死んだ顔でその子のマンションに赴き、インターホンで予想外に元気な声を聞くまで。我々の中で彼女はある時は死に、ある時は病院に居、ある時は寝て、ああそっかこれがシュレディンガーか! とオタク10年目にして初めてしっくり来ました。

夜通し死者を語らうのことを通夜と呼ぶならば、あれは確かに通夜だった。

 

と、こんな薄情列伝はさておいて、警察からは連絡ないよ!ってことをお伝えしておきます。

もしかして最悪の事態であれば来たのかも知れませんが。なので、110番する時は気が動転していると思いますが、最後にそういう連絡はしてくれるのかどうか聞いておくべきです。

 

死んで安らかになるを祈るか無事を祈るか、どちらが友人として正しいかなどはもう散々考えたので割愛。どうして今回はダメだと確信したかはアダルト・チルドレンの直感なのでそれも割愛。

以上。

『累』―近代的自我の探求―

 映画「累」本日公開! そして原作『累』最終巻も本日発売! めでたい!
 実は、映画は幸せなことに試写会にて一足お先に拝見してきました。ファンミーティング試写会ということで、上映後に松浦だるま先生と佐藤祐市監督のお話もお聞きできて胸がいっぱい。映画に関しては今は見ろとしか言えないので皆さん見ろ。原作ファンとして納得できないことも多いと思うけど、再構成って先生が言ってる通り映画は映画の迫力があると思うんだ。
 ということで書下ろしに関してのネタバレはない(と思う)けれど、以下最終巻を踏まえて主に原作『累』について述べます。相変わらず自分でも何言ってるかよくわかんない妄言なので、これを読む暇があったら本屋と映画館に行くように。

 一昨日映画を見て、帰って、1巻から通して読み直して。そして今日最終巻を読んで。呻きました。
 怖くて読めない、けど読みたい、という友人に「一言で表すなら」と言われてとっさに「愛」と答えたはいいけれど、その後すぐに「愛って何だ?」となりました。何だ?
 そして愛はわからないけど、とてつもなく近代的な話だなということを考えるようになりました。
 ここでいう近代的とは、いわゆる「近代的自我」ってやつです。文豪と呼ばれる人たちが泥酔しながらODしながら頭ハゲそうなくらい悩んで書いて死んで行った、アレです。自分とは何か、アーハン中二病ってやつですね。そうです中二病は「太宰を手に屋上に上が」るのです。今宵月が見えずとも。
 近代的自我が何故生まれたか、何故「近代」的なのか、何故苦しいかというと、それはまさしく近代という時代に新しく“発見”された概念だからです。近代とは即ち封建的制度、封建的集団の否定。個人の尊重、個性の乱立、理論の世紀です。形骸化した、無意味な封建制度とそれを再生産・強化する封建的集団を否定し、理知的な個人を認める。オリジナル イズ ナンバーワン! 何と素晴らしい。しかしこの考えにも落とし穴がありました。それは孤独です。それは苦悩です。自分探しの旅です。私という個人は何者なのか。何が私を私という個人たらしめるのか。私を私たらしめるものは何か。集団から解き放たれた人間は、こうして路頭に迷いました。これが近代的苦悩です。ストレイ・シープ。
 もう一度言いますが、近代的自我というのは新しい考えだったのです。だから、この考えが登場した時に生きていた人はみなそれ以前の封建的集団の中で産まれ、育ってきています。またハイ明治維新ですハイ近代ですハイ封建性は廃止しますなんてこともありませんでした。封建制度は残り続けました。そんな現実の中で近代的個人、近代的自我という考えが理想とされる矛盾。自我の暗中模索。これが近代人の苦悩です。

 さて『累』に話を戻します。一体全体『累』は上でだらだら語った近代的自我に、どう関係するのか。そりゃ作品全体だよ! と私は思う訳ですが、順を追うならまず「顔が入れ替わる」という第1巻からの設定でしょう。
顔は、分を、個人を認識するのにとても大事です。人が顔にこだわるのは、太古の昔から敵か味方かを判断するための手段だったから、ともいわれたりもしますが、どうやらiPhoneXが顔認証を採用しているところからすると一つとして同じ顔はない、というところが大きな意味を持っている気がします。一番見分けがつく、個人の記号。
 近代的苦悩とは即ち中二病。日がな一日、鏡を覗いてこの「顔」を見る病です。ラカン鏡像段階を精神的に引きずって、とにかく鏡を覗いて、そこに映る自分の「顔」を見て、これが自分なんだ、他人とは違うんだと確かめたい。集団に属さない迷子が、個人として自分を認識するにはまず自分自身を認識しなければならないからです。しかし目が顔についている限り、自分の顔を直接見ることはかないません。だから鏡を使う。
 そしてまた、そこに映る醜いものは認めたくない。自分の理想とする自分しか確かめたくない。集団を否定した今、自分を認めるものは自分しかいないからです。自分が自分を醜いと判断すれば、それが最初で最後の価値判断になってしまう。だから鏡を曇らせてみたり、割ってみたり、臥せて違うものを鏡の代用にしたり。そうしていつしか鏡は本当の鏡ではなく、他人になる。全面的に自分を他人に明け渡して、映し出すようになる。自分の顔を見るためには鏡を覗かなければならないように、自分という全体を見るには他人の反応を通すしかないからです。ここにも近代的個人の矛盾があります。集団を否定するには、その集団と違うと証明しなければならず、そのためには結局集団からの評価、つまり他人との比較が必要になってしまう。
 鏡を曇らせてみたり、割ってみたり、違うものを代用にしたり、というのはつまり現実の自分とは違う自分を創る、演出する、というとです。たとえばTwitterでは別人、家では別人、というやつ。近代文学では私小説(または私小説風の作品)の中では別人もしくはちょっと違って見せる、とか。結局全部同じこと。この他人に見せる自分こそが、自分の眼に映る自分になる。これこそが自分だという自己認識になる。
 また話が逸れてきましたが、とにかくこの鏡の変形が累ちゃんにとって顔の入れ替わりでありまたお芝居でもあったんだなあと。顔を入れ替えて、その入れ替えた顔で咲かせた才能。積んだキャリア。これらを全て消して、つまり他人に見せていた、鏡に映っていた、自分が自分だと錯覚していた(いやこれこそが本物だったのかもしれないけれど。欠片と言っていたあの)ものを捨てて、それでも自分は自分たり得るか。ずっと見ていた鏡を捨てて、今一度自身に問い、苦しむこと。ここに、ものすごく近代的自我の模索を感じたのです。最終的に累ちゃんは、自己を掴んだんだと思います。近代の夜明け。けれどそれが何かは、自分もまた掴まない限りわからない。
 あと、累ちゃんの物語が掴んでいくものなのに対し、誘さんと朱磐の伝説はまさに近代的苦悩そのものだと感じました。まず誘さんは、朱磐の忌むべき、無意味な封建的制度を拒絶し、近代的個人として出発します。そして迷います。近代っていうのはつまり近代以前までの否定、反抗から起こっているわけで、中二病中二病言ってきましたが要は反抗期なんです。だから誘も迷う。集団を拒絶し、同時に思慕する。この迷いは累ちゃんでもありましたね。また誘は“恋”に生きた、と釿互が言うけれど恋こそ近代的個人の大きなテーマ。恋とは集団を否定して、個人と個人とを認めたときにはじめて成立するものだから。誘さんもきっと累ちゃん同様自身をつかみ取ったんだと、そう思うけれど。物語がメインで描くのは累ちゃんの掴み取るまでの軌跡だと思うので、誘さんの方は、まさに近代、という気がしてしまう。

 そして本当はここから美醜の問題も考えなければならないのだけれど、とってもややこしいしまとまらないのでので終わり。今迄もまとまてなかったけど。
 最後に、太鳳ちゃんのレディ・マクベスが見たいです。あとサロメも通して見たいんだけど!?

累(14) (イブニングKC)

累(14) (イブニングKC)

ifの屍

四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、僕の責任は四分の一だけだ
芥川龍之介「闇中問答」

 どこの学部でもだけど、大学の専攻を選ぶには二つのパターンがある。ずばり、それが好きなのか好きではないのか。
 私は好きだから文学部を選んだし、私の周りもそうだった。
 けれどみんな四年間で終わらせて、一般的に言えば文学とは関係のないところへ就職した。
 私はプライドがチョモランマ級にあるので、文学に関してみんなに負けたつもりはない。けれど勝ったつもりもない。
 違いはただ、就職か進学かの選択だけだ。持っているものに差はなかった。読んだ本の量や知っている理論の数は、そんなの時間の問題だ。
 この差異を決めるのは遺伝、境遇、偶然、自責の四つ……を全て含めた偶然というものなのだろうけど、それにしたって、みんなどこかで可能性を捨てた、いや可能性が死んでいるのだ。どんな境遇にも言えることだけど、人は皆常に誰かの可能性の屍の上にいる。

 まだ学生で良いね、なんて言われると、ふざけるなこちとら生活費自分持ちフリーター院生で時間も体力も常に限界自転車操業だ馬鹿! と内心思っていたけれど、このことに気づいてからはあんまり思わなくなった。不安定な足元は、積まれた屍の山だったんだな。
 だからあと2年弱だとしても、その分本気でやるのが四分の一の僕の責任であり権利であり義務なんだ。
 自分がifを殺す番になってようやく気が付くとはね。

実体運営システム

人間ひとそれぞれ、放っておいても進んでやることとその逆がある。
放っておいても本を読む子もいれば、朝読書というシステムがないと本を読まない子もいる。
私は放っておいても本を読むし、洗濯もするし、掃除もする。その代り、放っておいたらご飯を食べない。
別に食べるのが嫌いな訳じゃないし、どうせ食べるなら美味しいものを食べたいとは思うけど、なんというか積極性がない。
例えば朝起きて、そこに何もなかったらお湯を沸かしてお湯を飲んでおわり。そのままバイトに行って、7、8時間労働して、お風呂に入って掃除して洗濯してあれもう寝るか、と一日が終わる危険性がある。(ちなみにバイトの休憩は30分とかなので何かもっていかないと食べる時間がない、よってバックにお菓子があればポリポリ食べたりするけど、無ければ水飲んでおしまい。)
実際は、さすがに朝起きてお腹は空いているのでおせんべいを2枚とお土産でもらったざびえる(大分銘菓)をひとかけらとを食べていたのだけれど、たぶんこれも無ければ食べなかっただろうな……。
身体は昼過ぎや夕方に適宜、お腹すいてるよ! とアラームを鳴らしてくれるのだが残念彼にはスヌーズ機能が無く、一度無視するとそれ以降沈黙。あれお腹空いてないぞ、寝るか。となってしまう。身体のせいじゃないのに被害は身体の方へ。ごめん私の身体よ。

しかしさすがに絶食すると一日がたつころには手がしびれてきたり、フラフラしたり。
倒れたら本も読めないし、思考も出来ない。これはよくない。自分で自分に朝読書ならぬ食事システムを運営してあげなければ……ということになった。今まではお母さんが運営してくださっていた。
日曜に、ご飯を炊きおかずをつくり溜め、それをいつ食べるか指示書をつくる。明日着る服を前日に用意するかの如く、明日の朝食べるセットを用意しておく。そうそう、服も前日に用意しないとダメな子なんです。
というか、実体世界への興味が薄い。脳みそだけで、思考だけで生きられたら良いのになあとか思っている。きっともうすぐそれが出来る世の中になるのではなかろうか。
友達は、仮にそうなったとしても私たちは実体重視の世界で育ってきたから矢張り実体にしがみつくと思うよ。と言う。
確かに、私も集中して読みたい本や参考書なんかはまだまだ紙じゃないと嫌だとか言っているし、もし選択を迫られたら実体にしがみつくのかもしれない。けれど、のほほんと生きて居られる現在においては相変わらず実体に積極性が無いわけで、ちゃんと実体運営システムを作ってあげないといけない。
そしてその実体運営システムをどんどんバージョンアップ、効率化していかないといけない。なぜなら実体運営システムの効率化、これ自体は思考で実験だから楽しくて、実体運営そのもののモチベーションとなるのだ。
どうしたらより忘れ物をしないか。どうしたら朝の支度がもっとはやくなるか。どうしたら掃除が面倒くさくならず嫌な気持ちにならないか。どうしたらご飯を忘れないか。

私が平均よりも生きづらいなあ(主観)と思っているからかもしれないけど、この実体運営システムの運営、見直し、バージョンアップというものは生きて行くうえで必要不可欠。そうつまり、お前がママになるんだよ!