三室山

本を読んだり映画を見たり、鉄道唱歌の旅に出たり

世の中よ

世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ泣くなる

(藤原俊成)

 

世の中もののあはれが多すぎる。

「感受性おばけ」と友達と呼び合っているのだが、文学や芸術に縋りよる人たちは特にこのあはれを感じすぎてしまう。と思う。それに振り回されてHPを消費しまくり、息も絶え絶え泣いては怒り倒れ伏し死ぬ死ぬ言いながら生きている。たまに本当に死ぬ。

俊成も息も絶え絶え山に入り、世の中のあはれから逃げようとしたのだと思う。けれど結局、鹿の気配だけで泣けてくる。当たり前だ、そりゃ泣くよ。細い足カサリと小さい音を立てて、陽に当たる黄金色の毛並みまで見えるよ。あはれすぎる。

高田馬場駅のロータリーに転がったトイレットペッパーのひとロールとか、赤黒く腐食した四谷見附橋とか。朝の青い暗さの中光る蛍光灯とか。そういうものに泣いて、肝心の家族とかにはめちゃくちゃな態度をとる。はっはーん、子供のままの大人ってよく言ったもんだ。

 

けど振り回され続けてなんだか生きてこれちゃったので、痛いプライドまでできて、さらにすがって、もっとアンテナを張り巡らせて、きっとそのうち天気予報で泣きだすぞ!

写実主義ってなんだろう (3.11)

2011年3月11日。付属高校の卒業式で、我々中学生はお休みだった。だから揺れが起こった時、私は中学の友達と秋葉原まんだらけにいた。

確か、その頃はまぁまぁ大きな揺れが頻発していたのだ。だから最初に揺れた時は、またか、と何食わぬ顔で棚を物色していた。友達は買取カウンターにいた。4秒ほど経って、揺れが収まるどころかだんだんと振り幅を増やして来た。フロアの客や店員は互いに顔を見合わせ、ちょっと普通じゃないぞ? という雰囲気が辺りに漂い始めた。私は中二病まっさかりいや今でもだが、なのでそんなに慌てちゃってぇ〜 と普通にしていた。しかし床は遠心力の実験かのようにぐるぐると大きく回り始め、天井の電球はぶらんぶらんと宙を舞い、レジの店員が危ないだか逃げてだか何かを叫び、私も流石にまずいなとレジ隣の外階段口へ足を踏み出した。音を聞いた覚えはないのだが、振り返ると長い本棚たちがドミノだおしになっていた。

揺れが続く中、黒い外階段を駆け下りた。地上では、歩道で人が立ち止まっていた。見上げると、秋葉原の黒いビルたちがこんにゃくのように揺れていた。

ウォークマンでラジオをつけた。とりあえず東北の地震だということがわかった。数分か数十分か、片耳でラジオを聞いたりメールをしようとしたりした。その時メールが果たして繋がっていたかどうか覚えていない。

私たちは秋葉原に土地勘がなかった。ほぼ初めてだった。どれくらいなかったかというと、私と友達とが方向音痴と方向音痴の組み合わせだったこともあるが秋葉原駅で落ち合うのに1時間以上、その後まんだらけへの道も含めて2時間近くかかっていた。確か秋葉原駅集合を12時か12時半にしていて、そして例の本震が14時46分なのだからどれだけ迷っているんだ。ガラケーはあって、電話で連絡を取りながらお互い動いて永遠に会えない、そういうタイプの方向音痴だった。

というわけで土地勘のない秋葉原駅に行っても状況は変わらない、と思ったのかなんなのか、とりあえずちょっとは慣れている上野駅まで歩くことにした。

方向音痴すぎる私たちだが、上野駅までは野生の勘か何かか、すんなりと着いた。不忍口は人であふれていた。改札までのエスカレーター頭上に掲示されている電光掲示板は、前線ストップの真っ赤だった。

上野に共通の友達の家があって、その子がメールでうちにおいで、と言ってくれたので向かってみた。歩いて、迷い、たどり着けないまま日が暮れた。どうしようもないので、西郷さんの周りのベンチで途方にくれた。調子に乗って薄着で来ていたので、ずっとガタガタ凍えていた。東京に遊びに行くぞ〜と、レース編みのカーディガンを着て浮かれていたのだった。

やがて公園中に、東京文化会館が避難場所となっている、よければどうぞ、という旨の放送が響き渡った。フラフラと向かった。暖かければいいや!と思った。途中、首都高下沿いのコンビニをのぞいてみたりもした。棚がすっからかんだった。

文化会館のロビーは地べたに座る人であふれていた。携帯の充電が切れた。上野に友達といる、ということだけは母親にメールできていた気がする。

日も暮れて、遅い避難だったせいか入り口付近しか空いていなかった。座って、ウォークマンに入っている画像なんかをみておしゃべりした。途中、ヘルメットを被った記者と、それを映すノーヘルのカメラマンが入って来た。へえ、映る人しか被らないんだ。幼稚園か保育園の幼児たちと、その引率教諭か保育士の集団もロビーにいた。彼らには毛布があったと思う。

銀座線復旧の一報が届いた。私は喋り続けていた。相当うるさかったのだろう、友達にたしなめられた。でも私は喋りつづけなければ怖かった。だったらコンビニで紙とペンを買ってくればいい、そこに書いて喋ればいい、と思いついた。すでに深夜だった。浅草口のファミリーマートまで歩いた。友達も付き添ってくれた。西郷さんの前で震えた夕方より一層寒かったが、深夜にコンビニへ行くなんて初めてで妙な興奮が震えを抑えた。

無印良品の84円ポリカーボネイトのシャープペンシルと同じく84円の再生紙メモパッドを買ってロビーに戻った。私はガリガリと、その日の朝から起きたことを書きなぐった。

友達は売れなかったアンソロジーの束を枕にして寝始めた。私は眠らなかった。ロビーの奥にあるテレビを、見に行った。床に転がっている人たちを大股で避けていった。テレビには、爆発した原発の様子が映し出されていた。なんかすごいことになっているな、とその一シーンだけ見て満足し、もとの場所へ座り直した。

夜が明けた。車で母が迎えにきた。友達はその家族を待つといってしばらく残った。家に帰ってから、東武線が復旧してそれで帰ることができたと連絡があった。帰ってきた我が家は、高台にあったおかげでさしたる被害はなかった。割れた酒瓶から酒臭さが充満していた。市内は液状化甚だしく、農道に電柱は倒れ、断水も起きていた。輪番停電はなかった。被災地だったから。iPodを水没させてしまった隣市の友達は、私の市であったら被災なので取り替えが効くとカスタマーセンターで言われたらしい。

その後は数ヶ月、大きな地震が続いた。第一声で大きな音を立てて、ズドンと一拍置いてから揺れるものは茨城震源だと体が覚えた。卒業式は中止になった。節電が促されたがアホの中二病は呑気にブログなんか更新していて、そしてその存在共々親にバレて深夜に正座で恐ろしく叱られたりした。

 

文化会館で書きなぐったメモパッドは、数年取っておいたがやがて捨ててしまった。今となっては見返してみたい。

無印良品のポリカーボネイトシャーペンはその後も気に入り、その一本をダメにしたか失くしたかしたあとも2本ほど買い継いで今も使っている。再生紙メモパッドに思ったことを喋るというのは、ひとりで長時間鉄道に乗るようになって再開した。

酒の臭気漂う中、一匹で一夜を明かした犬はその日以来ご飯を少量残す。非常食のつもりなのだろう。

家の梁も未だ曲がったままだ。

空よおまえの散らすのは

我が家はざっくり言うと、機能不全で全員がAC、そんな共同体ですてへぺろ、って感じなのだが、まあ自分の払う学費がどこへ消費されているかを知る権利はあろう......と、口頭試問のために印刷した卒論のコピーを、「要りますか」と父に問い、渡した。

数日後、というか昨夜。頭が痛くなりかけたけど読んだで、と報告された。図書館から借りてきた、と「海と毒薬」の文庫を片手に、私の論の要旨をペラペラ語りながら、まだ勝呂医院のところなんやけどな、お前の読んでから読むとそういう読み方もあるんやて思うわ、と言われて、はーん。まあね、それがきっと本質よ。と偉そうに思い、どう考えても私が持っているだろうに図書館で借りるディスコミュニケーションと、南京大虐殺を肯定するようなところが気になった、と私と違う歴史認識と政治思想とを流すことにした。

 

昨日は白いイろい雪の列でしたね。

ラスコーリニコフに糖分を

罪と罰」の主人公、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフくん。彼はお話の初めから終わりまで、実に忙しい精神と肉体との上昇・下降を繰り返す。

特に最初の、事件後の長い長い寝込み期間とその後の徘徊は凄まじい。

彼のこの状態は、素晴らしいお友達、ラズミーヒンくんの繰り返す通り栄養失調や狭い部屋の状態なども大きい理由だろう。しかしその中でも、特に糖分が足りていないのでは? と思う。

メンヘラの幼馴染は自律神経の失調で、それについてくる妹は低血糖だと思う。根本的な治療はともかく、発作的に心が苦しくなった時は、体温をあげて糖分をとって、ひたすら寝ろ! 

ラスコーリニコフくんも、GABAとか食べときゃなんとかなったんじゃないかね。

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

 

 

 

ホモ・サピエンス・サピエンス

年末年始、ポケ森の正月イベントやバイトの連勤術と戦いながら 「歌うネアンデルタール」を読んだ。全てが、ほえ〜勉強になるなあ! という感じで、とっても面白かった。有意義。

 

歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化

歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化

 

 

副題にもあるように、ヒトの進化と音楽/言語の進化・役割の考察がメインテーマになっている。しかしその本題にいくまで、考察を重ねる経過でも面白い仮説を紹介してくれていて、それぞれがとっても面白い。

 

その一つが、現生人類とそれ以外のヒト科の違いは「心の理論」と「思考意識水準」という話で、ちょっと思うところがあった。

簡単に言うと心の理論とは、他者の知識や信念や願望が自分と異なることを理解する能力で、思考意識水準とはこの意識のレベルの違い。

例えば一次の思考意識水準は私はこう考えているということ。二次の思考意識水準はAさんはきっとこう考えていると私が思うこと。三次の思考意識水準はAさんはこう考えているとBさんは思っているに違いないと私が考えていること。

人間は社会生活で日常的に三次から4次の思考意識水準を使っているといわれ、類人猿やホモ・サピエンス以前のヒトは最高でも次の思考意識水準にとどまっていると考えられる。

ということなのだが、ここで思ってしまった。果たして私はホモ・サピエンスに必須の、高次思考意識水準を保てているのか?

私は性格が悪いと言うか、アホというか、他人をいじりすぎてすべったりあとで自己嫌悪に陥ったり、ということを繰り返して生きている。学習能力がないともいう。だから「しんせかい」を読んだ時も、主人公が先生のいないところで、サービスのつもりで調子に乗って先生の文句言っちゃうところだった......。

しかし一人になって、1日を反省すると自己嫌悪に陥るわけで、その時に思うのが、人それぞれが見せる、そして私が見る面は一面に過ぎないという当たり前のことだ。

 そのタイムラグを無くして、はやくホモ・サピエンスになりたいもんだ。努力せい!

芥川賞マラソン②

芥川賞マラソン① - 三室山

 

第154回(2015下)

本谷有希子異類婚姻譚

読みやすかった。ただし猫が心に刺さってしまった。山行くときは意外と近いねって行ってたのに結局アメリカ戻っちゃうし!!

女の感覚を描く系だけど、選評にもあった夫婦あるあるの恐ろしさがだんだんとホラーになって、あのラスト。野ばらちゃんの「破産」とか村田沙耶香「タダイマトビラ」とかもだけど、こういう収集の付け方嫌いじゃない。パチーン!

揚げ物っていうセンスも良い。ただ最後の花は、揚げ物に比べてベタすぎかなと思ったり。部屋での描写はハッとさせられたんだけど、その後の山では山と花っていうのがありきたりすぎ...?と思ってしまった。でも部屋ではあの花じゃないと綺麗じゃないし....ないものねだりか!

 

 

第154回(2015下)

滝口悠生 「死んでいない者」

正直、中盤で寝た。けれど平行描写、完全なる三人称、無駄を省いたいや省きすぎ!?ってくらいの簡潔な説明口調......ジイドの「贋金つくり」を読み始めた時のショックを思い出した。

多分、常人がやったらバラバラになって読めたもんじゃないんだろうな。ギリギリのところで繋ぎ止めている感じ。イメージとしては操り人形を複雑に動かしている、その操作部分を上から俯瞰で見せられているような......。特に終盤は最初から振り返って、うわっ超絶技巧だったんだ! と気づく。

あと山田詠美が選評で、私が言えたことじゃないけど(未成年たち)酒飲みすぎじゃない? って述べてたの面白かった。確かに飲み過ぎです。

 

 

第153回(2015上) 又吉直樹 「火花」

 私も太宰は大好きなので、随所随所というか総合的に「うわっ 太宰が好きな人が書きそうで、太宰が好きな人が好みそうな小説!」と思った。先輩も無頼みがあるし、なんといっても現実を嘆きつつも架空の希望を謳いあげる全体の雰囲気。これこそ太宰の青春小説っぽい。現実の絶望を描ききらない、強みでもあり弱みだね。

色々と小理論を重ねつつ、芸術共同体理論という大きいラストへ着地するのも模範解答というか、安定感があるのでは。

映画も見たよ! 映画はより、芸術共同体理論を前面に出してる気がした。あと菅田将暉が好き。

 

 

第153回(2015上) 羽田圭介 「スクラップ・アンド・ビルド」

「トーキョーの調教」でも思ったけど、 男だな〜という感想。わざとやっているんだろうし、合ってると思っているし好きだし、悪い意味ではないよう。筋トレも、さすが自分がやってるだけあって描写がリアルで、ちゃんと引き込まれるし最後まで意味があるし。

介護問題って話題になってたけど、介護問題は借りただけで、描きたかったのはやっぱり男の落ち込みと再生なんだろうなあ。

 

 

第152回(2014下) 小野正嗣 「九年前の祈り」

 うーむ。

男から見た女であってリアルじゃないとか、ステレオタイプだとか、みみず描写がしつこいとかはまあ仕方ないんじゃない? と思う。

女ってのは男は女より世界を細かく見れていないと信じきっている生き物なので、その目線からいくと、よく観察しましたね、健闘賞(ただし現代の女をとジェンダーごりごり田舎の差異を、俺はわかっているんだぜふふふんっていう感じを勝手にだけど妄想してイラッとくることもある)って感じ。

島での夢だか現実だかわかんない感じとか、あとはおばちゃんや子供の描写はリアルだった!

けびん君とみっちゃん姉の祈りを被せているようでかぶさってないのとかはわざとなのかな、わざとなんだろうなあ。

 

 

異類婚姻譚

異類婚姻譚

 

 

 

死んでいない者

死んでいない者

 

 

 

火花 (文春文庫)

火花 (文春文庫)

 

 

 

スクラップ・アンド・ビルド

スクラップ・アンド・ビルド

 

 

 

 

九年前の祈り

九年前の祈り

 

 

 

背伸びの読書

小学二年生のクリスマス、「ハリーポッターと秘密の部屋」を親にリクエストし買ってもらった。ハリーポッターは当時話題になり始めていて、ちょうどこの第二巻が新刊として本屋の表に特集されていたのだ。

しかし小学二年生の私、意気揚々と朝読書へ持って行ったはいいものの、全然読めなかった。字はちっちゃくて、出てくる設定や名前もややこしい。話もわかんねえ! 小学二年生の私は、呪文や魔法界の設定を同時処理出来なかったのだ。というかまずシリーズ物の第二巻だしね。気づけ!

お恥ずかしながら当時も今も、本が好きとは言っても、難しい本が読めるわけではない。当時は小学二年生らしく、いやちょっと遅いかも? ゾロリとかわかったさんこまったさんとか、魔女っ子まじょ子ちゃんとか、その他とりあえずA5判ならきっと面白い! という謎の信念を持ってA5判児童書を読みまくっていた。なのでハリポタは背伸びも背伸び、大背伸び。(ハリポタはその後四年生になって再チャレンジしてからハマりにはまり、当時最新の不死鳥の騎士団まで数週間で駆け抜けた。以降は新刊予約してたし徹夜で読んでた。好き。)

 どうでも良い背伸び情報を連ねると、小学三年生の時は倉橋燿子「ホーリースクール」だった。(そっからはA5判児童書信仰から青い鳥信仰へシフトした)

中学一年生は、あさのあつこの「夜叉桜」だった。挫折した。(児童文学じゃない、時代小説なんだよこれ...)

中学二年生は嶽本野ばらの「幻想小品集」だった。ちょっと難しかったけど読めた。(中二ドンピシャで野ばらちゃんにハマったんだね泣けてくるぜ!)

中学三年生は三浦しをんの「秘密の花園」「天国旅行」だった。(以降しをん大好きなんだけど、「秘密の花園」「天国旅行」は「光」とかと同系列のパターン陰・暗め難しめ、だよね。神去なあなあ〜とか星間〜とかのパターン陽・ハッピーエンタメも好きだけど、もっと陰っぽいのも書いて欲しいなあ)

高校三年生は坂口安吾「白痴」と内田樹「寝ながら学べる構造主義」だった。初めて国語の先生に質問したし、寝ながら〜は章ごとに自分で紙に要約して図解してやっとわかったようなわかんないような...? (国語の論説文でわかんなかったことなんてないのに!とプライドが傷ついた覚えがある...アイタタ)

大学に入っても、芥川全集をマラソンした時はかなり背伸びしたし、その途中で鴎外の「ヰタセクスアリス」を挟んだ時は、息抜きの真逆になってドイツ語挟むなや!と発狂しかけた。演習で扱った明治期小説たちも全部背伸びだった。谷崎の「秘密」とか、担当したけどよくわかってなかったし今もわかってない。なんだよ〜Arrested at last. 〜〜 ドストエフスキーも高校生で読んどけよって感じだけど、つい去年から頑張ってるし、まだまだ読むにゃ気合いがいる。

 

 しかし今一番の背伸びは論文だ。それも文学の作品論とか作家論じゃなくて(これも私のアホな脳みそには難しいけど、流石にこの3、4年で少しは慣れた)、社会学とか哲学とかそういう方面の......

院試で出す修論計画で泥沼の時期、物語論とか宗教の構造論とかやるとかなんとか背伸びっていうか大事故って感じの息巻きかたをしてそういうのを色々読んだ。が、読めないこと読めないこと。1ページ読むのに遅いし3度くらい読んでやっとわかるかも、わかる気がする、気がしてきた!みたいな......己の脳みそが恨めしい。でも同時に興奮した。

 世の中私が理解できない難しい書物に溢れてるぜ、だから読むものに一生困ることはない。だから中央図書館の地下は好きだし、身震いする。知恵のなんたるかを読むことによって学べ、知識の海に沈みたいよ〜〜〜って。と言いつつゲームしたり酒飲んだり遊びに行ったり、ストイックにお勉強はできないんだけど!

 

 

‪「私の見るところ、人間の脳には、ひとつの根源的欲求がある。それは自分を取り巻く世界がどのように成り立っているのか、またこの世界はどのような力によって動かされているのかという疑問にたいして、できるだけ統一的な説明を与えたいという欲求である。科学も神話もこの欲求に応えるものである」

フランソワ・ジャコブ

東郷雄二『文科系必修研究生活術 』(ちくま学芸文庫)

 

文科系必修研究生活術 (ちくま学芸文庫)

文科系必修研究生活術 (ちくま学芸文庫)