三室山

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わたしを離さないで から感じる『ビジテリアン大祭』

金曜10時からTBSで放送中のドラマ「わたしを離さないで」
カズオ・イシグロ原作の『Never Let Me Go』(邦訳:『私を離さないで』)を原作にしたドラマだ。

もう残すところ最終回となってしまった本作のあらすじを簡単に振り返ると、「提供者」として「人間」に臓器を提供するためにつくられたクローン人間たちが友情をはぐくんだり恋をしたり嫉妬したり生き方を模索したりしながら結局は「提供者」として臓器を提供し尽くして死んでいく、そんな話だ。詳しくは公式サイト(
金曜ドラマ『わたしを離さないで』|TBSテレビ
)もしくはwiki
わたしを離さないで - Wikipedia
)を見てくれ。そんなこんなで話は暗い。めちゃくちゃ暗い。そして先週ついにメインの3人のうち1人が提供し尽くして死んでしまった。水川あさみ熱演。およよ。美和ぁ………

ちょうどいい時間にやっているし、なんとなーく、で見ていたのだが、前段でちょろっと言った先週の美和(演:水川あさみ)で一気にひきこまれてしまった。もう残り1話だけど。そして考えさせられてしまった。私は涙もろいので、先週美和が「嫌だ…嫌だ…恭子!!!!」と叫んで最後の提供、つまりは死を恐怖する場面にダバダバと泣いてしまったのだが、泣くと同時に「なんで私は泣いているんだろう」と考えた。そりゃ生を願う人間が殺されるから悲しくって泣いてしまったのである。んなことわかっているんである。問題はそこじゃない。提供者に対して湧く憐憫は家畜に対して湧く憐憫なのかって話なんだ。そこを考えていこう。

ただ臓器を提供するために作られ、殺される提供者。生死のすべてを「人間」に握られている家畜。そんな彼女たちを見て素直に湧き出る感情は、「提供者かわいそう!彼女たちだって人間なのに!生きたいって思ってるのに人間のために殺されて、本当にかわいそう!」だ。そして可哀想およよよ…と泣く。可哀想な命。人間のために屠られる可哀想な家畜…家畜…ん?
じゃあ私は日々食べる「人間のために屠られる家畜」に対して涙を流すだろうか。

流さねーよ。プルコギ大好き。サンクスコストコ。ついでに捕鯨も反対派じゃない。じゃあ犬は?ウサギは?…ごめんちょっと無理。
じゃあ肉として屠られる動物に対して湧く憐憫…流す涙の基準ってどこ?クローン人間は?駄目。先週駄目だったもん。牛は全部許せる?ううん全部は許せない。白と黒のぶちぶちの乳牛が牛肉にされるっていうのはちょっと心が受け付けない。牛の中でも違うのかよ!なんてあいまいな基準で食物連鎖をしてるの私。
でもこの基準にはよく考えるとちゃんと一定のルールがある。それは「なんのために飼育されたか」だ。
例えを出そう。テレビでよくやっている、丁寧に、愛情をもって育てられている高級肉牛の飼育シーン。これを見て私が抱く感情は「愛情をもって育ててもらってよかったね…」だ。
次、丁寧に、愛情をもって育てられている高級乳牛の飼育シーン。これを見て私が抱く感情も「愛情をもって育ててもらってよかったね…」。
そしてその高級肉牛を食す場面を見て私が抱く感想は「愛情をもって育てられてよかったね…美味しく食べられてよかったね…だって美味しく食べられるのが君の生きる意義だもんね…」ちなみに高級乳牛から絞られた「牛乳」を見て抱く感想も一緒。
でも高級乳牛の肉を見せられても同じ感想は抱かない。だってその牛は牛乳のために飼育されてたんだよ!?なんで殺したん!?ってなっちゃう。可愛そうおよよよ…ってなる。じゃあお前は天然ものの動物は食えねーのか!って話だけどそうじゃないよだって食べるときはいちいち考えないから。家畜に対して「かわいそう」「かわいそうじゃない」って考えるのは、それに対して考えるからこそ出てくる認識だ。考えなくてもいいのが「家畜」なんだから。(第9話で恵美子先生が言ってたのがこれだよね…「考えなくてもいいようにするには、自分と同じじゃないと思えばいい」)
これを「わたしを離さないで」にあてはめると、陽光学苑は「丁寧に、愛情をもって育てている」牛舎だ。もし水川あさみが牛だったら私はあんなにダバダバ泣かなかった…何を言っているんだろう…いやでもそうなんだ…

人間の判断する「かわいそう」と「かわいそうじゃない」。そしてその判断の外にある「考えない」。
これら3つは全て人間が勝手に考えていることだ。人間のために。

そこで思い出す作品がある。宮沢賢治『ビジリアン大祭』だ。
宮沢賢治ベジタリアンであったことはよく知られているが、『ビジテリアン大祭』の知名度は低いのではないだろうか。
『ビジテリアン大祭』は、
ニュウファウンドランド島の山村で行われた、ビジテリアン大祭に日本の代表として参加した主人公の話。 話に先立って、菜食主義には、同情派(動物愛護派)と予防派(健康推進派)および第三派(最少限の肉食をゆるして動物に食われることを認める派)があって、実践方法も様々で、一括して捉えられないことが説明される。
船の中でトルコ人の一団と合流し、港に到着した一行はヒルテイの村のデビスという長老に遭いに行く。会場となった教会の入り口で、菜食主義を中傷するビラが撒かれている。
大会がはじまり、挨拶のあと、批判派と擁護派の応酬が始まる。......


ビジテリアン大祭 - Wikipedia
より とりあえずWikipedia見て青空文庫で読んでくれ
宮沢賢治 ビジテリアン大祭
以下「かわいそう」「かわいそうじゃない」「考えない」に関してここだなって思ったところを引用。引用もとは同じく青空文庫

「◎偏狭非学術的なるビジテリアンを排せ。
ビジテリアンの主張は全然誤謬である。今この陰気な非学術的思想を動物心理学的に批判して見よう。
 ビジテリアンたちは動物が可哀そうだから食べないという。動物が可哀そうだということがどうしてわかるか。ただこっちが可哀そうだと思うだけである。全体豚ぶたなどが死というような高等な観念を持っているものではない。あれはただ腹が空へった、かぶらの茎、噛かみつく、うまい、厭、ねむり、起きる、鼻がつまる、ぐうと鳴らす、腹がへった、麦糠むぎぬか、たべる、うまい、つかれた、ねむる、という工合に一つずつの小さな現在が続いて居るだけである。殺す前にキーキー叫ぶのは、それは引っぱられたり、たたかれたりするからだ、その証拠には、殺すつもりでなしに、何か鶏卵の三十も少し遠くの方でご馳走ちそうをするつもりで、豚の足に縄をつけて、ひっぱって見るがいいやっぱり豚はキーキー云う。こんな訳だから、ほんとうに豚を可哀そうと思うなら、そうっと怒おこらせないように、うまいものをたべさせて置いて、にわかに熱湯にでもたたき込んでしまうがいい、豚は大悦びだ、くるっと毛まで剥むけてしまう。われわれの組合では、この方法によって、沢山たくさんの豚を悦ばせている。ビジテリアンたちは、それを知らない。自分が死ぬのがいやだから、ほかの動物もみんなそうだろうと思うのだ。あんまり子供らしい考である。」



ううむ「あんまり子供らしい考え」。子どもらしい、は自己中心的、だ。
自己中心的に「かわいそう」「かわいそうじゃない」を振り分ける、テレビの前の自分にゾッとした。


わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)