三室山

本を読んだり映画を見たり、鉄道唱歌の旅に出たり

どうぶつの森と楽園追放

どうぶつの森ポケットキャンプ、略してポケ森。11/21にリリースされてから、私も周囲もせっせとプレイし、すでに「森で会おう」「森に住む」などの謎会話が飛び交う状況だ。

ポケ森をDLしハマってから、明らかに減ったものがある。インスタグラムを開く回数だ。
私はここ数ヶ月、インスタグラムのストーリーをこまめに見ていた。24時間で消える近況報告、いいね! を求めないただのつぶやき。Twitterと合わせて友人の日常を、情報を常にガツガツ摂取していた。
それが必要なくなった。ポケ森で与えられる架空の日常、情報で満たされているからだ。

そしてその情報得たさに、眼を血走らせて虫と魚を乱獲し、現実の体を蝕んでいる。スローライフとは何なのか。
このままじゃいけない、明日は早番よ…! と眼をつぶっても、ああっ いまこの瞬間にもあたらしい「ほしいもの」やコガネムシやヒラメが出現して、手に入れられる材料やベルたちが、潜在的利益が消えているのでは…!? と手をiPhoneに伸ばしてしまう。

だめだめ、スローライフよ、スローライフ。私の置いたハンモックや椅子に座って眠るどうぶつたちを見てごらん。120円課金して設置した、たぬきちの椅子、これに座ってすやすやねむるたぬきちを見てごらん。かわいい。すやすや。しあわせそう。まったり。
私も、こうやって隣のソファに座ってね(ソファをタップ)、ほら座ってる。眼を瞑って、私はいま森にいる。
そよそよと心地の良い夜風が髪を肌を撫で、周りには優しくて可愛いどうぶつたち。静寂の中かすかに聞こえる焚火の音。ふかふかのソファ、ふわふわの毛布、暖色のランタン。眠れなかったら起きて本を読めば良い。そして昼に眠たくなったら、ハンモックを揺らして眠れば良い。それに飽きたら、散歩をして、適当に釣りをして、虫を捕って、果物を採り、貝殻を拾い、服屋を見に行き.........。あぁ明日もきっとこうして平和に過ぎていく。隣で眠るたぬきのもふもふ加減はどんな感じ? どれくらいの固さが良いだろう.........。

昨夜はこうして、ポケ森に実際に生きる妄想をしてようやく眠りについた。
私は真剣だ。架空の日常、架空の生活。任天堂がくれた視覚的、聴覚的情報という骨子に、妄想という肉をつけ味わっている。
もしVR技術がもっと発達したら、目を瞑る必要なんてない。本当に、この綺麗な虫しかいない世界を体験できたら良いなぁ。きっともう帰ってこないだろう。


映画「楽園追放」には、肉体を捨て、データとなって電脳世界に暮らす人々が描かれている。

それはディーバと呼ばれ、彼らは肉体を持たず、情報として生き情報によって生かされている。快楽も衝撃も、情報が与える。仮想ビーチで楽しみ、ハッキングを受けて散る。何かしでかせばアカウントがアーカイブされる。
彼らはネットワークの中に溶け込み、直接感じているのだ。

私が先ほど「良いなぁ」と思い浮かべたVR技術は、なんとなくこのディーバ世界をイメージしている。
私たちが、空想で補っているものを。ペタペタ貼り付けている肉を。目を瞑って想像する手間を必要としない世界。最初から想像通りのものを体験できる世界。

けれど、自分の手で補わなくなった時点でそれは現実になってしまうと、そう思う。だって自分の手で変えられないから。

ポケ森にいると思って目を瞑るとき、小説を読んで脳内で再生するとき、旅行の計画をたてるとき、まだ見ぬ理想の家を部屋を思い浮かべるとき。人それぞれ、違う理想によって、現実との間を埋めている。それは、誰にも犯せず誰にも真似できない絶対の支配領域だ。そこではその人だけが創造主で、1秒前にAにしたこともBに、Cに、Dにできる。むしろ新しい文字を開発してしまえる。その人の手で、変えられる。

自分で補うのって確かに全然リアルじゃないし、とても労力がかかる。考えることをやめてしまったら、目を開けてしまったら、心地よい夜風はたちまち消えて代わりに石油ストーブの唸る音が聞こえてくる。冷たいフローリングが目前に迫る。

けれど考え続ける限り、自分の理想は保たれる。この世で最も高い水準で保たれる。「楽園追放」されたからこそ「楽園」を無限に想像できる。
だから私はまだ、今夜も、画面の向こうの森を思い浮かべながら、目を瞑って耳を澄ませる。