三室山

本を読んだり映画を見たり、鉄道唱歌の旅に出たり

文学研究のプリオシン海岸

 軽井沢のセミナーハウス、コース合宿の二日目。隣でカレーライスを食べていらっしゃったM先生が言った。
「でも、論文を書くのは楽しいですよね。どうして自分はこの作品が好きなんだろう、と確かめながら書く作業は、楽しい事です」

 そうだ、そうだった。レポートが、卒論が。辛い辛いと言ってはいるが、好きだなあと思ったものを論じているのだった。さすがですM先生、好き。
 そして昨日、芥川賞の選評を読んでこの先生の言葉が頭の中で甦った。
 文学研究は基本的に、その作品が、作者が、好きだ! 気になる! というところから出発する。先生のおっしゃる通り。だからどの論文も、作品、作者リスペクトの精神が根底にある。気がする。優しい世界だ。
 けれど批評の世界は、そうじゃない。当然だけど、厳しい言葉が飛び交う飛び交う。比喩まで駆使して、人の作ったものを拙い、下手だと断言する。おっかねー! 慣れません。無理、帰ります。サラバ!

 けれど文学研究の優しい世界で、「だからこの作品は素晴らしいのです!」と作品・作者礼賛に終着する論文も発表も好かない。え、それで……? その作品が素敵で作者がすごいってことはあなたの主観でしょ、もっと内容の話をしてよ~~ と思ってしまうから。
 好き、とか素敵、とかは主観で、趣味だ。だけど研究、科学は証明だ。人文科学である文学だってそこに属している。

「君たちは参観かね。」その大学士らしい人が、眼鏡をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。
「くるみが沢山あったろう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新らしい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまえ。ていねいに鑿でやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、昔はたくさん居たさ。」
「標本にするんですか。」
「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい。そこもスコープではいけない。そのすぐ下に肋骨が埋もれてる筈じゃないか。」大学士はあわてて走って行きました。
宮沢賢治銀河鉄道の夜

 だから「銀河鉄道の夜」で博士が言った、この「ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか」の証明をしなくてはならない。そのためには、最後が好き、素敵ではいけないのだ。本文からちまちま証拠を発掘して、ていねいに鑿でけずって、きれいにならべて。ここに地層があります。こうして色々と発掘されました。これをこう並べて、こう考えると、これは百二十万年くらいにできたものだと分かります。私はそう考えます。とそう言わなくては。だからこれが好きなんです。素敵だと思うんです。と言うのはぐっとこらえて、その研究を行った、続けている自分の姿勢で表さなくちゃ。そう思う。
 ま、私は、「いきなり何を言いだすんだこいつは」って感じのレポートばっか書いてますけど。うーんうーん。