純文学と大衆小説の狭間
純文学と大衆小説。これを分けて、評価することはもちろん好かない。けれど小説に大きく分けて二つのパターンがあることは、確かだと思う。
パターン①…場外ホームラン! 打った本人(作者)もその行方は分からない。みんなも探してくれ……というもの。
パターン②…上投げキャッチボールの最後。ほおらこれで終わりだよ。こう思うよ、ハイおしまい。というもの。
分かりづらいかな。
パターン①は往々にして純文学と言われるもので、だから「よくわかんない」と言われがち。そして「よくわからない」ことをもてはやされがち。
パターン②は往々にして大衆小説と言われるもので、だから「おもしろい」と言われがち。そして「おもしろい」ことで軽く見なされがち。
たとえで出したボールっていうのは、作者の持つ関心・疑問・結論たち。
①のほうはだいたい、関心・疑問はたくさんあるけど結局分からんよ、とりあえず打っときまーすカキーン! ってものが多い。もちろんある程度作者の提案みたいなのはあって、それがほのめかされたり、むしろ登場人物によってはっきり語られていたりもする。けれど絶対じゃない。
②の方はだいたい、結論というか作者の意見みたいなのがちゃんとあって、私はこう思ったよ、ハイどうぞ参考にしてね~ と読者に渡してくれる。上投げ。
①だとみんな分からないから、考えてくれる。文学研究してくれる。というか作者も分かんないんだもの。
②だとなるほどそうか~ と納得しちゃうから、あんまり研究されない。だって納得させるように書いてるからね。
世に言う純文学と大衆小説、それだけの違いじゃないかなあ。
もちろんこれは小説の種類を二つに分けるなんて野暮な思考の、そのなかの一つのものさしに過ぎないし、
卒論で遠藤周作の純文学作品と大衆文学(遠藤の場合は中間小説、軽小説とかよく言ったりするけど)の違いについて気になって、先行研究を読んでいたら出てきたご意見を変なたとえで紹介しただけでした。
参考:小嶋洋輔『遠藤周作論―「救い」の位置―』双文社出版、2012年

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