三室山

本を読んだり映画を見たり、鉄道唱歌の旅に出たり

写実主義ってなんだろう (3.11)

2011年3月11日。付属高校の卒業式で、我々中学生はお休みだった。だから揺れが起こった時、私は中学の友達と秋葉原まんだらけにいた。

確か、その頃はまぁまぁ大きな揺れが頻発していたのだ。だから最初に揺れた時は、またか、と何食わぬ顔で棚を物色していた。友達は買取カウンターにいた。4秒ほど経って、揺れが収まるどころかだんだんと振り幅を増やして来た。フロアの客や店員は互いに顔を見合わせ、ちょっと普通じゃないぞ? という雰囲気が辺りに漂い始めた。私は中二病まっさかりいや今でもだが、なのでそんなに慌てちゃってぇ〜 と普通にしていた。しかし床は遠心力の実験かのようにぐるぐると大きく回り始め、天井の電球はぶらんぶらんと宙を舞い、レジの店員が危ないだか逃げてだか何かを叫び、私も流石にまずいなとレジ隣の外階段口へ足を踏み出した。音を聞いた覚えはないのだが、振り返ると長い本棚たちがドミノだおしになっていた。

揺れが続く中、黒い外階段を駆け下りた。地上では、歩道で人が立ち止まっていた。見上げると、秋葉原の黒いビルたちがこんにゃくのように揺れていた。

ウォークマンでラジオをつけた。とりあえず東北の地震だということがわかった。数分か数十分か、片耳でラジオを聞いたりメールをしようとしたりした。その時メールが果たして繋がっていたかどうか覚えていない。

私たちは秋葉原に土地勘がなかった。ほぼ初めてだった。どれくらいなかったかというと、私と友達とが方向音痴と方向音痴の組み合わせだったこともあるが秋葉原駅で落ち合うのに1時間以上、その後まんだらけへの道も含めて2時間近くかかっていた。確か秋葉原駅集合を12時か12時半にしていて、そして例の本震が14時46分なのだからどれだけ迷っているんだ。ガラケーはあって、電話で連絡を取りながらお互い動いて永遠に会えない、そういうタイプの方向音痴だった。

というわけで土地勘のない秋葉原駅に行っても状況は変わらない、と思ったのかなんなのか、とりあえずちょっとは慣れている上野駅まで歩くことにした。

方向音痴すぎる私たちだが、上野駅までは野生の勘か何かか、すんなりと着いた。不忍口は人であふれていた。改札までのエスカレーター頭上に掲示されている電光掲示板は、前線ストップの真っ赤だった。

上野に共通の友達の家があって、その子がメールでうちにおいで、と言ってくれたので向かってみた。歩いて、迷い、たどり着けないまま日が暮れた。どうしようもないので、西郷さんの周りのベンチで途方にくれた。調子に乗って薄着で来ていたので、ずっとガタガタ凍えていた。東京に遊びに行くぞ〜と、レース編みのカーディガンを着て浮かれていたのだった。

やがて公園中に、東京文化会館が避難場所となっている、よければどうぞ、という旨の放送が響き渡った。フラフラと向かった。暖かければいいや!と思った。途中、首都高下沿いのコンビニをのぞいてみたりもした。棚がすっからかんだった。

文化会館のロビーは地べたに座る人であふれていた。携帯の充電が切れた。上野に友達といる、ということだけは母親にメールできていた気がする。

日も暮れて、遅い避難だったせいか入り口付近しか空いていなかった。座って、ウォークマンに入っている画像なんかをみておしゃべりした。途中、ヘルメットを被った記者と、それを映すノーヘルのカメラマンが入って来た。へえ、映る人しか被らないんだ。幼稚園か保育園の幼児たちと、その引率教諭か保育士の集団もロビーにいた。彼らには毛布があったと思う。

銀座線復旧の一報が届いた。私は喋り続けていた。相当うるさかったのだろう、友達にたしなめられた。でも私は喋りつづけなければ怖かった。だったらコンビニで紙とペンを買ってくればいい、そこに書いて喋ればいい、と思いついた。すでに深夜だった。浅草口のファミリーマートまで歩いた。友達も付き添ってくれた。西郷さんの前で震えた夕方より一層寒かったが、深夜にコンビニへ行くなんて初めてで妙な興奮が震えを抑えた。

無印良品の84円ポリカーボネイトのシャープペンシルと同じく84円の再生紙メモパッドを買ってロビーに戻った。私はガリガリと、その日の朝から起きたことを書きなぐった。

友達は売れなかったアンソロジーの束を枕にして寝始めた。私は眠らなかった。ロビーの奥にあるテレビを、見に行った。床に転がっている人たちを大股で避けていった。テレビには、爆発した原発の様子が映し出されていた。なんかすごいことになっているな、とその一シーンだけ見て満足し、もとの場所へ座り直した。

夜が明けた。車で母が迎えにきた。友達はその家族を待つといってしばらく残った。家に帰ってから、東武線が復旧してそれで帰ることができたと連絡があった。帰ってきた我が家は、高台にあったおかげでさしたる被害はなかった。割れた酒瓶から酒臭さが充満していた。市内は液状化甚だしく、農道に電柱は倒れ、断水も起きていた。輪番停電はなかった。被災地だったから。iPodを水没させてしまった隣市の友達は、私の市であったら被災なので取り替えが効くとカスタマーセンターで言われたらしい。

その後は数ヶ月、大きな地震が続いた。第一声で大きな音を立てて、ズドンと一拍置いてから揺れるものは茨城震源だと体が覚えた。卒業式は中止になった。節電が促されたがアホの中二病は呑気にブログなんか更新していて、そしてその存在共々親にバレて深夜に正座で恐ろしく叱られたりした。

 

文化会館で書きなぐったメモパッドは、数年取っておいたがやがて捨ててしまった。今となっては見返してみたい。

無印良品のポリカーボネイトシャーペンはその後も気に入り、その一本をダメにしたか失くしたかしたあとも2本ほど買い継いで今も使っている。再生紙メモパッドに思ったことを喋るというのは、ひとりで長時間鉄道に乗るようになって再開した。

酒の臭気漂う中、一匹で一夜を明かした犬はその日以来ご飯を少量残す。非常食のつもりなのだろう。

家の梁も未だ曲がったままだ。