三室山

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『累』―近代的自我の探求―

 映画「累」本日公開! そして原作『累』最終巻も本日発売! めでたい!
 実は、映画は幸せなことに試写会にて一足お先に拝見してきました。ファンミーティング試写会ということで、上映後に松浦だるま先生と佐藤祐市監督のお話もお聞きできて胸がいっぱい。映画に関しては今は見ろとしか言えないので皆さん見ろ。原作ファンとして納得できないことも多いと思うけど、再構成って先生が言ってる通り映画は映画の迫力があると思うんだ。
 ということで書下ろしに関してのネタバレはない(と思う)けれど、以下最終巻を踏まえて主に原作『累』について述べます。相変わらず自分でも何言ってるかよくわかんない妄言なので、これを読む暇があったら本屋と映画館に行くように。

 一昨日映画を見て、帰って、1巻から通して読み直して。そして今日最終巻を読んで。呻きました。
 怖くて読めない、けど読みたい、という友人に「一言で表すなら」と言われてとっさに「愛」と答えたはいいけれど、その後すぐに「愛って何だ?」となりました。何だ?
 そして愛はわからないけど、とてつもなく近代的な話だなということを考えるようになりました。
 ここでいう近代的とは、いわゆる「近代的自我」ってやつです。文豪と呼ばれる人たちが泥酔しながらODしながら頭ハゲそうなくらい悩んで書いて死んで行った、アレです。自分とは何か、アーハン中二病ってやつですね。そうです中二病は「太宰を手に屋上に上が」るのです。今宵月が見えずとも。
 近代的自我が何故生まれたか、何故「近代」的なのか、何故苦しいかというと、それはまさしく近代という時代に新しく“発見”された概念だからです。近代とは即ち封建的制度、封建的集団の否定。個人の尊重、個性の乱立、理論の世紀です。形骸化した、無意味な封建制度とそれを再生産・強化する封建的集団を否定し、理知的な個人を認める。オリジナル イズ ナンバーワン! 何と素晴らしい。しかしこの考えにも落とし穴がありました。それは孤独です。それは苦悩です。自分探しの旅です。私という個人は何者なのか。何が私を私という個人たらしめるのか。私を私たらしめるものは何か。集団から解き放たれた人間は、こうして路頭に迷いました。これが近代的苦悩です。ストレイ・シープ。
 もう一度言いますが、近代的自我というのは新しい考えだったのです。だから、この考えが登場した時に生きていた人はみなそれ以前の封建的集団の中で産まれ、育ってきています。またハイ明治維新ですハイ近代ですハイ封建性は廃止しますなんてこともありませんでした。封建制度は残り続けました。そんな現実の中で近代的個人、近代的自我という考えが理想とされる矛盾。自我の暗中模索。これが近代人の苦悩です。

 さて『累』に話を戻します。一体全体『累』は上でだらだら語った近代的自我に、どう関係するのか。そりゃ作品全体だよ! と私は思う訳ですが、順を追うならまず「顔が入れ替わる」という第1巻からの設定でしょう。
顔は、分を、個人を認識するのにとても大事です。人が顔にこだわるのは、太古の昔から敵か味方かを判断するための手段だったから、ともいわれたりもしますが、どうやらiPhoneXが顔認証を採用しているところからすると一つとして同じ顔はない、というところが大きな意味を持っている気がします。一番見分けがつく、個人の記号。
 近代的苦悩とは即ち中二病。日がな一日、鏡を覗いてこの「顔」を見る病です。ラカン鏡像段階を精神的に引きずって、とにかく鏡を覗いて、そこに映る自分の「顔」を見て、これが自分なんだ、他人とは違うんだと確かめたい。集団に属さない迷子が、個人として自分を認識するにはまず自分自身を認識しなければならないからです。しかし目が顔についている限り、自分の顔を直接見ることはかないません。だから鏡を使う。
 そしてまた、そこに映る醜いものは認めたくない。自分の理想とする自分しか確かめたくない。集団を否定した今、自分を認めるものは自分しかいないからです。自分が自分を醜いと判断すれば、それが最初で最後の価値判断になってしまう。だから鏡を曇らせてみたり、割ってみたり、臥せて違うものを鏡の代用にしたり。そうしていつしか鏡は本当の鏡ではなく、他人になる。全面的に自分を他人に明け渡して、映し出すようになる。自分の顔を見るためには鏡を覗かなければならないように、自分という全体を見るには他人の反応を通すしかないからです。ここにも近代的個人の矛盾があります。集団を否定するには、その集団と違うと証明しなければならず、そのためには結局集団からの評価、つまり他人との比較が必要になってしまう。
 鏡を曇らせてみたり、割ってみたり、違うものを代用にしたり、というのはつまり現実の自分とは違う自分を創る、演出する、というとです。たとえばTwitterでは別人、家では別人、というやつ。近代文学では私小説(または私小説風の作品)の中では別人もしくはちょっと違って見せる、とか。結局全部同じこと。この他人に見せる自分こそが、自分の眼に映る自分になる。これこそが自分だという自己認識になる。
 また話が逸れてきましたが、とにかくこの鏡の変形が累ちゃんにとって顔の入れ替わりでありまたお芝居でもあったんだなあと。顔を入れ替えて、その入れ替えた顔で咲かせた才能。積んだキャリア。これらを全て消して、つまり他人に見せていた、鏡に映っていた、自分が自分だと錯覚していた(いやこれこそが本物だったのかもしれないけれど。欠片と言っていたあの)ものを捨てて、それでも自分は自分たり得るか。ずっと見ていた鏡を捨てて、今一度自身に問い、苦しむこと。ここに、ものすごく近代的自我の模索を感じたのです。最終的に累ちゃんは、自己を掴んだんだと思います。近代の夜明け。けれどそれが何かは、自分もまた掴まない限りわからない。
 あと、累ちゃんの物語が掴んでいくものなのに対し、誘さんと朱磐の伝説はまさに近代的苦悩そのものだと感じました。まず誘さんは、朱磐の忌むべき、無意味な封建的制度を拒絶し、近代的個人として出発します。そして迷います。近代っていうのはつまり近代以前までの否定、反抗から起こっているわけで、中二病中二病言ってきましたが要は反抗期なんです。だから誘も迷う。集団を拒絶し、同時に思慕する。この迷いは累ちゃんでもありましたね。また誘は“恋”に生きた、と釿互が言うけれど恋こそ近代的個人の大きなテーマ。恋とは集団を否定して、個人と個人とを認めたときにはじめて成立するものだから。誘さんもきっと累ちゃん同様自身をつかみ取ったんだと、そう思うけれど。物語がメインで描くのは累ちゃんの掴み取るまでの軌跡だと思うので、誘さんの方は、まさに近代、という気がしてしまう。

 そして本当はここから美醜の問題も考えなければならないのだけれど、とってもややこしいしまとまらないのでので終わり。今迄もまとまてなかったけど。
 最後に、太鳳ちゃんのレディ・マクベスが見たいです。あとサロメも通して見たいんだけど!?

累(14) (イブニングKC)

累(14) (イブニングKC)