三室山

本を読んだり映画を見たり、鉄道唱歌の旅に出たり

サバイバー問題を考える

 家庭内の諸々のせいで健全な精神発達に至らず捩くれたまま大人になってしまった人々をいわゆるアダルト・チルドレンと言うわけですけれども。そんな我々だって年がら年中病んでいる訳ではない。少なくともこの名称を知って、何らかの治療というか何というかをして、自分の中で折り合いをつけて、耐えて、努力して、努力して、そりゃあもう日々努力ですよ、気をぬくとまた堕ちるからね、を重ねて、その結果寛解というか、小康状態というか、ようやく「え、普通じゃん!」と笑われるような外面を保てるようになっている。そういう状態の人が多いっていうか私だこんにゃろー。そんで、世はこれをサバイバーというらしいのです。
 ここで重要なのは二つ。一つ目は、この「普通じゃん!」は他人には思い及ばぬ(と当人たちは固く信じている)血と汗と涙の滲んだ努力によって成り立っているということ。この他人には思い及ばぬっていうのはね、別に機能完全家庭(そんなんあるのか?)で育った人には分かんねーよばーか、ということではなくてね、もうAC界隈で集まっても駄目ですっていうそういう感じ。私の苦しみは私しか知らないし、私の努力も私しか知らない。ぽろっと一端を喋っただけで分かられてたまるか! というプライドを各々持っているからね。無理。だけど同時に、こういう努力をしないでのうのうと生きている(となんとも迷惑なことに我々が考えがちな)人々に関しても、くっそー! やっぱ一回地獄に落ちろ! この世の地獄とそこからの生還を必修科目にしろ! と思うわけですよ。分かられてたまるか、だけど分かれ! っていう矛盾。つまりね、ひねくれているんですわ。自分の努力に並々ならぬプライドを持っているから。でもこのプライドはね、ないとやってらんないよ。そうじゃなきゃどうしてこんな理不尽って泣いちゃうもんね。
 二つ目は、この「普通じゃん!」に晴れて至ったのはもちろん自分たちの努力もあるけれど、偶然による作用も多い。これを忘れてしまいがちだということ。自分の苦しみと努力に関しては分かられてたまるか! と思っているのに、他人のそれに対しては軽率に分かった気になっちゃうんですよね。誰にも分からないのが個人の苦しみで、だからその解法も誰にも分からないはず。なのに分かった気になっていらん先輩風を吹かせようとするこの矛盾! よくない! よくないけどやってしまいがち! 戒め! 自分は出来た。だから出来ないやつは努力が足りん、なんてそんなのねえ、されて嫌だったはずのことを再生産しているんですね。おお怖。やはり捩くれたままだったのだな。
  
 もちろんACという問題意外にも人それぞれ試練が与えられているというのは頭では分かっているんだけどね、理論と感情と行動は別の問題だからね。難しいなあ人間って。